創部70周年記念誌Web版
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Ⅴ OB・OG(有志)便り

中川 勝弘(S46卒)

私の卓球との関りは高校3年生の時友人と遊びで卓球を始めその面白さにはまり、甲南大学入学後卓球部に入りました。暗い高校時代と違い、輝いた大学卓球部生活を夢見ていました。 ところがいくら練習をしても、うまくならない(ゲームに勝てない)。自分なりにいろいろ考えました。理論、身体で覚える練習、用具と分けて考えました。しかし素人同然ですからいくら卓球レポートを読んでも理論なんてまるでダメです。
用具も凝り、TSP に 1 枚ラバーの別注を作ってもらいました。紫色のラバーに無理やり大粒で作成してもらいました。そのため 1 枚ラバーですが、カットサーブは結構切れました。確実に1ポイントとれますが、いつも初回だけ。
また、少しでも長く練習したいのでユニフォームで通学したり、練習のない時には、大阪の上六卓球センターに行ったり、自宅での素振りやサーブの練習をしたり。

そんな中、大阪の福島にナリタ卓球センター(成田静司氏経営)が出来ました。片山君を誘い、大学の練習のあと、阪急梅田で阪神電車に乗り換えて野田阪神で下車してセンターに着きます。
成田さんに指導されるというより、片山君との練習ばかりでしたが、事情がありセンターは2年未満で閉鎖されましたが、最後まで通いました。とにかく年中練習していました。

部内で多少勝てるようになっても、試合では1回戦で終わります。結果は残せませんでした。
高校でもダメで大学の卓球でも思うようにはなりませんでした。

ところが、大学卒業後はさまざまなことがうまくゆきだしました。クラブ在籍中の努力することが、自分の習性になり、努力することが苦になりません。人より一生懸命にすれば、どのような局面でも結果を残せました。

人生をまとめてゆく時期になり、振り返るとスポーツでは一流・二流にはなれませんでしたが、仕事や人生のコツは「努力」にあることを卓球部活動で身に付きました。
そのため先輩、後輩に感謝の気持ちをもっています。

〔思い出いろいろ〕
現役の時、大内主将が突然遠足に行こうと言い、ある日曜日宝塚ファミリーランドで過ごしました。ほぼ全員参加です。練習せなあかんのに、何で遠足やねんと思いましたが、気分転換やとの答え、長い間この方針の感覚が分かりませんでしたが、自分が団体の長や経営者になってから、その意味がよく分かるようになりました。主将って大変だったやなと今でも感謝。

1969年宝塚ファミリーランドにて 後列左から比企邦(1)、久留島(3)、森岡(1)、比企貴(4)、田中(4)、近藤(4)、佐藤(1)、久松(3)、荒井(4)、大内主将、片山(3)、前列:木村(4)、有田(1)、山口(1)、小松原(2)、中川(3)

OBになって現役の援助やOB会の仕事で現役と関わったり、連絡を取ったりしていると、その内容に不満が何度もあり、何でキチンとできないのだろうと思ったことがありました。どのように叱ろうか、どう指導したらよいのか考えていると、自分も現役時は同じようなことだったのに気がつきました。
例えば主務の嶋さんと先輩方に寄付のお願いに回った時も話す言葉づかいにも困ったことがあります。そんな事を思い出した時、現役に対する怒りが消え、当時の自分のいたらなさや恥ずかしさで頭がいっぱいになりました。何人かの先輩に非礼があったと思いますが、顔色を変えることなく、いつも温かく迎えてくださった先輩に感謝です。
現役に何か言いたいことがある場合、怒って𠮟るのではなく、彼らを認めながら意見や選択肢の一つとして自分の体験談などを伝えていきたいと思います。