創部70周年記念誌Web版
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Ⅲ 創部者が語る甲南卓球部(1)

橋本 晃(S31卒)

甲南大学卓球部を卒業して早65有余年の年月が流れ、創部70周年を迎えられたとのこと喜 ばしく、創部者としての名前が残っていくことは誠に冥利に尽きると、つくづく有り難く思って います。

私が入学した昭和27年、卓球部は勿論なく、運動部も僅かしか創部されておらず、無為に時 が過ぎていくうち、何とか卓球をしたいという思いが湧いてきた折り、高校の時、阪神間予選で しばしば戦った大芝 斉君らに偶然出会ったのが、卓球部創部の発端となったことは45年誌の 回顧で書いた通りです。何をするにも人・物・金が必要なのはいつの時代でも同じですが、今か ら考えるとよくあんな事ができたなと思うほどの冷や汗の連続で、若気の至りで突っ走ったこと が懐かしく思い出されます。これらをいかに調達したかは、45周年誌年誌を大部分引用させて もらいますが、精読されている方はお許しの程を。

まず「人」についてですが、部員集めは私にとって馴染みが薄く、またおっかない後藤教官に 頭を下げて履歴書を見せてもらい趣味の蘭から卓球経験者をリストアップし、片っ端から勧誘し たのが、初代 OB 会長の松本彰一郎、竹内雄三、原口英生、加納 泰であった。
次に「物」についてですが、最小の部員は集まったが、会社でいう資本金無しの出発では何も 買えない。球・ユニホームは勿論、肝心の卓球場がない。何とか高校の練習場を借りるより他、 手がない。皮肉なことに甲南高校卓球部出身者が一人もおらず、なかなか上手くいかなかった が、大芝君の政治的手腕でともかく借りてスタートできました。部室の使用、練習時間の調整で 高校側には随分迷惑をかけました。また体育館の使用を巡って柔道部、バトミントン部等の話し 合いは“調整”という社会の縮図をいち早く経験したことになりました。
続いて「金」についてですが、大学からは一銭も出ない。いわんや援助してくれる先輩もいな い。部員を集めるお金は雀の涙。そこで、天の啓示が閃く! 要するに決して練習をしない名前 だけの部員を大量に集めることだ。普通なら練習をしない部員は首だが、資金繰りの苦しさに名 案が生まれた。運動部に加入していると体育の出席単位の水増しがあり、この登録を条件に女子 学生の八割まで入部させました。入会金百円。部員は一人一ヵ月百円也。
なお、今では考えられないことをしましたが、大学関係の方にはお許しください

【学習院大学との定期戦】について 学友会副委員長でもあった小生にとって学習院大学との卓球部定期戦の締結は私の学生生活の 大きなエポックであり、これを皮切りに運動部、文化部の総合定期戦となって定着したことは、 卓球部の果たした役割は誠に大きく甲南大学の歴史に残るものと喜んでいます。当時、学習院大 委員長は藤島泰輔氏(昭和天皇陛下の学友で後に「孤独の人」を出版し、一躍有名となる)で彼の 自宅にも招かれスムースに話ができたことは、やはり母体が旧制高校であるという連帯感があっ たと思われる。対して我が校の学友委員長は石井一氏で当時から議員になる芽があったと言えま す。 とにかくこの時代は創造の時代であった。そこに居合わせたことは本当に幸せであり、そして OB 会の一員として、70年の歴史の一齣を語れることの喜びを噛みしめています。

皆さん、OB・OG も現役もお互い誇りをもって、仕事に、勉学・クラブ活動にそして人生に 対して、いつまでも元気に頑張って行こうではありませんか!

最後になりましたが、70周年誌を企画推進され発刊に尽力された委員の皆様に深甚の敬意を 表するとともに卓球部の益々の発展を願っています。

〔創部時の部員紹介〕
橋本 晃:大芝氏とともに創部に携わり、チャレンジ精神旺盛で主務として大いに活躍
大芝 斉:橋本氏とともに創部に携わり、大学・各クラブとの調整に力を発揮
竹内雄三:大学から卓球を始め、学友会・応援団として渉外関係を担当
原口英生:創部当初はレギュラーであったが、有望な後輩の入部により控えとなる
松本彰一郎:初代 OB 会長(S46年発足)で、永きに渡り OB 会をリードし、関西学生卓球連盟の理事も務める

S40年頃の練習風景
創部当時の練習場は岡本キャンパスの西側にある(現在の icommons の場所)小体育館
当時は空手部と共用で通常練習は体育館の半分を使用(卓球台は4台)
ただ校舎に近い場所で授業後の移動は便利
(現在の六甲アイランド練習場へはバスで約30分)